認知症の方が語る「作話」を、「作り話」と一笑に付していいのか。

毎日新聞の福岡版のページに、毎週木曜日に掲載されるコラム、「いのち寿ぐために」。
見逃すことも多いのですが、毎回考えさせられる記事です。
何度も読み返すこともしばしばです。
今日、2014年2月20日木曜日の「いのち寿ぐために」のタイトルは、「それは「作り話」なのか」。
認知症で、宅老所で暮らす古本さん、という女性の話でした。(もちろん仮名です)

認知症の方は、ときに事実無根の話をされることがある。
それを「作話」(さくわ)と言うそうです。
古本さんも、
「私が30何歳ぐらいの時だったかなあ、イチロー選手と同じ下宿にいたのよ。」
とか、
「仲良しの最期を看取った」
などの話を、しばしばされるそうです。
けれど、それらは、全て事実とはかけ離れているそうです。
そして、このような、「事実無根の話」が「作話」と呼ばれるものなのでしょう。

しかし、コラムを書いた福岡賢正さんは、そのような物語が、古本さんの人生を肯定するために必要なのだ、単なる作り話では決してない、と断じられています。
心の奥深くまで刺さりました。

全ての人間にとって、共通の未来は、「老い」と「死」です。
誰にも平等に訪れる「老い」の中で、自己肯定のために話す話が、事実無根だからといって一笑に付せる権利は誰にもない。
第一、その場合、「事実」とは、いったい何をもって「事実」というのか。
あったことそのものは、確かに「事実」だろうけれど、たとえば古本さんが、当然あったこと、と信じて話すことならば、それは、古本さんの中では「事実」以外の何物でもないでしょう。
「確かにそこにある」「確かにそこにあった」、「確実に目で見える」「自分の目で見た」
これだけが事実ではない、と私は信じます。

本当に考えさせられた記事でした。

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